10/14~10/16まで講演会のために東北に行ってきました。3.11の大震災から早くも2年半が過ぎようとしていますが、今もって被災地の現実は中々に複雑なものがあります。復興に向けて機関車のごとく邁進する町もあれば、流された市街地は無残にススキに覆われ、残された基礎だけがかつてここに町があったことを物語っているところもあります。そんな中、震災の経験を生かしこれからつくる家は少しでも良い家をとの想いでお招きいただいた皆さんにこの場をお借りして心より御礼申し上げます。
岐阜を拠点に研究者と設計者という一人二役をこなす辻先生のお話し。もとは工学系出身ではなく芸術大出身という、異色のキャラクターながら自ら設計した建物を計測し科学する姿勢に共感いたしました。
連日の激務と折からの台風にも関わらず会場にはたくさんの皆さんに来ていただきました。
続々と復興団地が出来上がってゆきます。
写真は復興のために全国から集まる人たちが宿泊する仮設ホテル。このホテルは約500名が利用しているとのこと。長い人では1年以上。ほぼ住んでいる状態の人もいるとのことでした。
居住棟の間には絆、.復興の文字が並ぶ。
朝のラッシュが想像できる改札口?
津波で押し流され無残にも横倒しになった建物が寂しく当事のまま放置されています。それにしても津波の力とは想像を絶するものだったのだと思います。
女性職員が最後まで避難を呼びかけ続け、14mを超える津波により命を落とした南三陸町防災対策庁舎。周りは全て流され寂しそうに建っています。
この荒涼とした喪失感は現地でしか味わえないものでしょう。重たい問いを突きつけられているように感じました。「あなたはこの現実からなにを学びますか?明日にどう生かしますか?」建築の作り手として主人を守れなかった建物を見るのは辛いものです。
供えられたたくさんのお花と手を合わせる人たち。
夜聞いた、居酒屋の女将さんのお話しは一生忘れないでしょう。「店であれこれ探しているうちに津波がやってくるのが見えて、ロフトに駆けあがったの。窓から見ると幼馴染の隣の奥さんがまだ外にいるのが見えて、大声で呼んだら気がついて走ってきた。その人の旦那さんは大丈夫だって言ったきり流されて、とても現実だなんて思えなかった。家は木造だったから浮かんでずいぶん離れたところまで流されて助かりました。でも避難所は寒くて寒くて、毛布を一枚もらったけど床のコンクリートの寒さが骨身に染みて三日間ほとんど眠れなかった。...近所の知り合いは20人以上亡くなったけど、私たちは運がよかった。店が借りられたし働けたから、今ではこうやって笑って話せるようになったんですよ。あらあら、あんまり神妙な顔しないで~(笑)。」 女将さんが強く誇らしく輝いて見えました。