5/2(木)は、GWの休みを利用し妻と三男と旭川のとなり街、東川町へ、まあ休みといってもクライアントさんから注文のあったダイニングチェアの検品と引き取りが目的なので半分は仕事ですが。(笑)
東川町は町内で生まれた子達に椅子を贈る事で知られる家具のまち。大きな木工団地を抱え暮らしは木との関わりが深い。
訪れたのは、過去のブログでも紹介した㈱匠工芸。安易に見た目に走らず簡素で飽きの来ないデザインと、最高の使い心地。一旦道具として使い慣れると特に椅子はとても評判がよい。一概に家具屋といっても販売専門や箱物専門があるが、なんといっても同社の特徴は最も製作が困難な椅子にこだわり、小規模な工場ながら自社でデザイナーを抱えているところ。現在、専務を務める中井啓二郎のデザインは使う人に優しくポップでさえある。弊社を訪れたことのある人なら必ず腰を下ろしたことのある椅子の作者であり、少しづつ改良を加えながら今も進化は続いている。一生に一度の家づくり、クライアントとは長時間の打ち合わせになることも珍しくない。でもその多くが新居に同じ椅子を欲しがることは私の密かな自慢のひとつである。
(*注:弊社のオリジナルチェアは匠工芸のカタログモデルではありません。同社のWebカタログには載っていませんので予めご了承下さい。)
時は1967年(昭和42年)、東京オリンピックから3年後、戦後は過去のものになりつつあり、大都市圏はどこも経済成長の最中にあった。当時の旭川市の人口はまだ30万人に届かず、爆発的に拡大を続ける札幌圏に比べると地味な印象は否めなかった。
若手職人の登竜門である「技能五輪」。中でも全国大会を勝ちあがり国際大会に駒を進めることは旭川中の若手職人にとって自らの将来を開く絶好の機会といってよい。当時、山際家具製作所に在籍していた桑原義彦もそんな一人だった。
はたして日本各地の強豪を抑え、順当に全国大会を勝ち上がった桑原は見事、国際大会に挑戦を果たす。会場はスペインのマドリッド。そもそも技能五輪の提唱国であるスペイン大会は特別なものだ。そんな本家本元の会場で、なんと家具部門で世界第二位の栄誉に輝く。極東の名も知らぬ街から来た青年がその技において世界に劣らぬことを示した瞬間だった。それはまた旭川が家具の街として世界に認められる切っ掛けともなった。その後、先輩の偉業を目にした後輩たちが次々と挑戦を開始したからだ。今でこそ旭川の職人は大会の常連として世界に認められているがその背景にはこんな歴史がある。
「桑」のイニシャルが焼き込まれた愛用の道具は今も会社の奥に整然と並べられている。
日本のノミは今や世界中の職人に愛される存在になったが、当時この道具をはじめて目にしたスペインの職人たちはどう思ったのだろう?
一部の家具好きの中では㈱匠工芸を旭川家具の中の旭川家具として一目置く雰囲気がある。
桑原の挑戦から早くも45年の月日が流れ、その間に旭川からたくさんの職人たちが挑戦するも、いまだに彼の記録に並ぶものはいない。
(*注:技能五輪国際大会に日本がはじめて出場を果たしたのは1962年スペインのヒホン大会。8名の選手が参加し、金メダル5個、銀メダル1個、銅メダル0個と大健闘した。資料:北海道職業能力開発協会HPより)
今日はクラプトンなんていかがでしょう?